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まんま大塚英志。その先が敷衍出来ていないのはなぜ?

アメリカ 村上春樹と江藤淳
 江藤淳と村上春樹に焦点を当てて、戦後日本文学における「アメリカの影」を再考するってアプローチは、まんま大塚英志だ。この論考が大塚の仕事を踏まえたものなのかっていうと、どうもその先の踏み込みが見られなくてハテナなのだ。坪内祐三なら当然、目を通しているだろうに。大体、「いずれにせよ、私たちは、これらの小説が発表されてから二十数年のちの今の時点から振り返って、三人の作者(注-村上龍、田中康夫、村上春樹のこと)のその後の作家としてのあり方を意識しつつ(その内の一人については既に論じたが)、アメリカをキーワードに、改めて、この三作(注-「限りなく透明に近いブルー」「なんとなく、クリスタル」「風の歌を聴け」のこと)の小説を読み返してみなければならない」って言っておきながら、肝心な分析は収められていないんだよね。
 「一九八〇年前後が、振り返ってみると日本のアメリカ化の一つの転換(あるいは臨界)となる時期に当たっていた気がする」ってのは、その通りだと思う。もちろん、それは江藤淳が文芸時評を停止した時期とも符合している。「アメリカの傘があるために光がささずに閉ざされている一方、この傘なしには生きていけない」っていう江藤淳的ダブルヴィジョンのメンタリティが、この頃までは多くの日本人に共感できる文脈として確固としてあったと思うんだけど、80年代以降は、そうしたコンプレックスが曖昧模糊っていうかフォニーな形で雲散霧消しちゃったっていう。まぁ、時の流れである。今のJ-POPもそうだけど、これは日本オリジナルのものなんかじゃなくてフォニーなんだっていう自覚が出来ているかどうかが、まず江藤淳の評価基準であって。そうなると江藤淳的に村上春樹はフォニーか否か?とか、三者三作に対する現在の坪内祐三の評価は?ってあたりはこの論考を締めくくるにあたって絶対必要な部分だと思うんだよね。なんで無いんだ?
引用元:まんま大塚英志。その先が敷衍出来ていないのはなぜ?

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アメリカ 村上春樹と江藤淳
小学校の頃この本を一度だけ読んだことがあるのですが、今でも、まだ内容や、ワクワクしながら読みすすめたことなど、とても楽しんで読んだことを覚えています。実はそれからずーっと今マデこの本を探しつづけていたのですが、読んだ頃は小さかったので、題名しか覚えていなくって・・・でも、やっとみつけることができて、とっても嬉しいです。私に衝撃を与えた本はこの本以外にありません。子供が読むには少し厚めかな?といったかんじは受けるのですが、読みはじめるととまりません!それぐらい面白い本です。
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