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まんま大塚英志。その先が敷衍出来ていないのはなぜ?
![]() | アメリカ 村上春樹と江藤淳 |
「一九八〇年前後が、振り返ってみると日本のアメリカ化の一つの転換(あるいは臨界)となる時期に当たっていた気がする」ってのは、その通りだと思う。もちろん、それは江藤淳が文芸時評を停止した時期とも符合している。「アメリカの傘があるために光がささずに閉ざされている一方、この傘なしには生きていけない」っていう江藤淳的ダブルヴィジョンのメンタリティが、この頃までは多くの日本人に共感できる文脈として確固としてあったと思うんだけど、80年代以降は、そうしたコンプレックスが曖昧模糊っていうかフォニーな形で雲散霧消しちゃったっていう。まぁ、時の流れである。今のJ-POPもそうだけど、これは日本オリジナルのものなんかじゃなくてフォニーなんだっていう自覚が出来ているかどうかが、まず江藤淳の評価基準であって。そうなると江藤淳的に村上春樹はフォニーか否か?とか、三者三作に対する現在の坪内祐三の評価は?ってあたりはこの論考を締めくくるにあたって絶対必要な部分だと思うんだよね。なんで無いんだ?
引用元:まんま大塚英志。その先が敷衍出来ていないのはなぜ?
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